2009年06月14日

笑・SHOW・賞

「結局、最終的には笑ったんもん勝ち」

これまた最近自分が思うことであったりする。現在、自分の所属ではないフロアーのヘルプという形で介護をやっているわけなんだけども、もちろん日々ヘルプなんて気持ちはなく、まったなしで自分らしくやらさせてもらい、さらさらヘルプなんて感情はないわけであって、チームの一員としてやっている。

そんな中でたくさんのことを学び本当に感謝しているわけなんだけど、そんな感謝の日々の中で、今のフロアーに入所中のあるお年寄りから改めて感じたというか、胸がホットになったっていうか、胸躍るっていうか、まあ、そんな出来事。

現在のフロアーに入所中のYさんというお年寄り。簡単に表現すと、感情をありのままに表現する可愛らしいお年寄りである。

機嫌が悪ければ表情を見れば一発でわかるし、機嫌がよければ何でも笑ってくれる。ある意味「わがまま子ちゃん」であって、こんな女性を万が一嫁にもらったらある意味苦労もするのかもしれない。

だがしっ。自分は少なからずここ数ヶ月間、このYさんに救われ、冒頭にも記したように「最終的に笑ったもん勝ち」というか、表現を変えるのであれば、「笑うということは人を救う」ということを感じている。

このYさん。とにかく「ツボ」が非常に浅い。どれくらい浅いかというと、自分が眉毛をその方に向けて「ヒクヒクっ」ってしただけで「ゲラっゲラ」笑う。

それほどまでに浅い。なので、自分で言うのもおかしいのだけど、自分はそのYさんであれば、どんな状況であろうが100%笑わす自信があるほどである。

それ以外にも、おむつ交換中にその方が「ぷぅぅぅー」っておならをこいたもんだから「あれっ?今クマのプゥーさんがいませんでしたか?」ってかましただけで、「うひょうひょ」笑ってくれる。

また、これはもちろん冗談なんだけど、一つ一つの介助動作に金額をつける。たとえば、「お尻を拭いたら二万円」とか「車椅子からベットに移動させたら200万」とか。

「んじゃ、今お尻を拭いたので二万円いただきます」
「ぷぅぅーー」
「んっ?今おならしましたねっ?んじゃ、あと5万」

なんて感じで接すると呼吸するのも苦しそうなほどに「ゲラッゲラ」って笑ってくれる。

なんか、そんなどうしようもない駆け引きを方や90才近いお年寄りと、方や30代半ばのおっさんがやりとりしてるわけなんだけど、実はそんなしょーもないやり取りの中に、生きることに大切なことって何か?って非常に深いことを考える自分。

人間誰しも老化は訪れるわけだし、老化ってこだけでなくとも病気にもなるし、病気じゃなくても、人間関係であったり、金銭事情であったり、身近な環境に浮き沈みがある。

そんな時、誰しも落ち込み、うつむき、自分を見失う。だがし、最近そのお年寄りと接していて思うのだけど、どんな状況においても前向きであって、どんな些細なことで笑うことのできている人が人生を楽しむ勝ち組なんじゃないかと思う。

彼女に振られても、過酷な勤務が続いても、自分と性格が合わない人がいたとしても、「ぷぅぅー」っておならをこいて、「ゲラッゲラ」笑える自分がいるのであれば、「オールオッケー」なのではないか?

そんな浅はかなことを考えている。そして、これも最近思うのだけど、実は何を隠そう自分がそんな人を望んでいるのだとも思う。

やっぱり堅苦しいひとよりも、どんな些細なことでも一緒に馬鹿みたいに爆笑できる人のほうが絶対に人生そのものが豊かになる。

最近本当にそう思う。たとえば、短いに良い例があるんだけど、うちの姉ちゃん。これはこれは驚くほどに「ツボ」が浅い。

っていうか、実はうちの家族はみんなツボが浅いのだけど、そんな中でも群を抜いて浅いのが姉ちゃんである。

少し前に、うちに泊まりに来たときに、面白動画を見せたら、そのまま他界すんじゃないか?って思うほどに、呼吸をみだし、大爆笑していた。

これが不思議なもんで、そんな姉ちゃんといるなんだか自分まで幸せっていうか、なんだかすがすがしい気分になる。

たぶん5・6回は同じ動画リピートしたんだけど、1回目も6回も同じテンションで大爆笑している姉を見て、姉ながらこんな姉と結婚したら、旦那は幸せなんだろうな?なんてことすら弟が考える。

我ながら面白い姉と弟だ。

さて、色々と書いたわけなんだけど、最終的に自分が言いたいことは

「とにかく笑っちゃえ」

ってことが。笑い飛ばしちったほうが、絶対に面白いってことであり

「どんな時でも笑える自分でいたいじゃないか」

ってことである。笑ってくれる人が身近にいるって事は実は本当に幸運であって、自分がそんな自分であって、今で言うと、自分の身近なお年寄りをそういった自分であることによって、少しでも前向きにできたらとも思う。

最近笑ってないな?って思っているあなた。改めてそんな自分を見直してみてはいかがでしょうか?

「笑い」は想像以上に周囲と自分を前向きにできるぞよ。

そう考えてみると、自分の身近な友人はみんな「ツボ」が浅いおばかちゃんばっかだな・・・。なんてことも振り返ってみる。
ニックネーム どらごん at 22:29| Comment(0) | 日記

SESERAGI

あと数時間経過することによって、自分はもうひとつ年を重ねることになるということで、なんとなく良い機会なんで最近思うこと、自分の感情について記そうと思う。

最近自分が自分自身で感じる自分は、「なだらか」という表現がなんとなくしっくりきているように感じる。

そう。まるで川のせせらぎのようにある意味一定でさらさらと感情が流れているような感覚である。

これがきっと年を重ねるということなんだろうなんて感じたりしている最近である。

なんだかあまりガツガツしたくないっていうか、自然体の自分がそこにあれば良いっていうか、なんとなく心地よさすら感じる昨今である。

なんとなく力ない感じの表現ではあるものの、もしかしたら自分が目指していた自分っていうものはそんな感じなのかもしれない。

「ああしたい」「こうしたい」「こうすべき」「そうあるべき」

色んな感情論があるわけなんだけど、最近思うのは、こういった感情論の裏側に流れているものっていうのは「欲望」ってやつで、違う表現をするならば「欲しがっちゃう」ってことになる。

「欲しがっちゃう」

それは地位であったり、名誉であったり、明確な回答であったり、そして金銭的であったりと様々なわけなんだけど、実はそういった感情を放棄して、自分が自分らしくあることが、実は一番の充実感であるように思える。

そして、それを求めることをしないで、自分が自分らしくあることを大切にして生きていると、その先には実はとても心地の良い川のせせらぎのような自分にたどり着ける。

今は、少し前の日記にも書いたように、今までと違う環境で働き、ある意味もしかしたら大変な時期なのかも知れないけれど、なんだか、あと数時間でもう一つ年を重ねる自分は、実は「なだらか」である。

感謝もしているし、前向きでもあるし、体が感じている状況と、自分の心が感じている真実の部分に良い意味で「ギャップ」を感じている。

これが「経験する」ということであって、きっと自分はこれから先いくつもの年を重ねてもこの気持ちを維持できるであろう感触を得ている。

そういう意味では改めて、今までの人生であり、家族であり、職場の人たちであり、自然であり、神であり、すべての自分の取り巻きに感謝をしたいと思っている。

そして、こういった感謝の元に自分があり、今後の自分もあるのだと思う。

いろんなことがある。そりゃー生きてるから。そして打ちひしがれて、地団太を踏んで、ディープな気持ちにもなる。

だけれども、最終的にはどんな理不尽な出来事であっても、最終的にはそれもひっくるめた自分であって、自分の人生であるわけだから、やはり最終的は感謝なのかもしれないと最近思う。

そう考えると、どんな激流も最終的には「せせらぎ」にたどりつくのだと最近思う。

こんな自分が最近少しばかり「演歌」の良さを感じるようになってきたのは、もしかしたらある意味「必然」なのかも知れない。

今後の自分にさらに期待をしてみようと思う。
そして、「自然体な自分であるために」を追求したいと思う。
ニックネーム どらごん at 21:27| Comment(0) | 日記

2009年05月10日

独唱

逆に、どうでもいいことを。

単刀直入に自分の最近の悩み事を書こうと思う。

ずばり、「独語」「独り言」である。

困ったことにというか、最近本当にやばくて・・。

そもそも、自分の認識としての独り言ってのは、一人でいるときに発する言葉であって、それが一人出ないときにおいては、この定義は覆されるわけなんだけど、まさしく、後者である、「一人でない時」に最近繰り出されることがある。

そうなちゃうと、それは、もはや、よもや、「独り言」ではなく一気に「変なおじさん」になる。

まさしく、いま、自分は「変なおじさん」である。

フォーイグザンポーなんだけど、一人で買い物をしているときに、その日あった仕事のことが脳裏をよぎる。

そんなときの自分の脳内構造は

「なんであんな言葉を発したのだろう」
「本当にあの人のためになったのか?」
「今日の自分は正解だったのか?」

などなど、ある意味、いつも振り返っている。それが心の中での問いかけであり、心の中での問題点であれば良いのだけど、なんと最近それを口に出してしまっている自分がいることに、何を隠そう自分が気がつく。

「あっ」って感じで思わず自分の口を押さえてみたりしちゃったりして、その行為そのものが「変なおじさん」に拍車をかける。もう、火だるま状態。

それ以外にも、「あっ。ごま油忘れたっ」や「うわっ。電源入れっぱなし」などなど、日常における忘れ物系がぺロッて口から飛び出る。

できちゃった結婚状態。

案の定、今日も無性にそうめんが食べたくなって仕事帰りに購入しに行ったわけなんだけど、本日の一言は「賞味期限」だった。

「めんつゆ」の賞味期限が気になった自分の心が勝手に躍りだし、「どぴゅ」ってその言葉そのものを発してしまう。

できちゃった結婚である。

こうなると、家にいるときの独り言なんてのはもう「日常」であって、まったく気にならない。家にいれば一人なわけであって、それはもはや独り言でありがとうレベルなので、自分的にはオッケーレベル。

まるで。「嫁」でもいるかのごとく喋り捲っている自分は、自分の中で一人ではないのだと最近言い聞かせている。

「誰かと住んでいるんだろうよ作戦」だ。

そう。おらは、誰かと住んでいるのだと思う。

そうだ、きっとそうなんだ。
ニックネーム どらごん at 22:31| Comment(1) | 日記

2009年04月29日

ラブレター

かなり前の日記に、「もててるんだぜっ」(お年寄り編)のような日記を記した記憶がある。2年くらい前なのかな?

そう。俺は時々もてる。お年寄りに。熟女なんてもんが可愛く見えてしまうほどの熟熟女に。

現在、違うフロアーのヘルプをしていることは、少し前の日記に記したのだけど、相対するお年寄りががらっと変わり、自分はよそ者スタートになったわけだ。

だがし。そこは、自分だってけっこうな年数を重ねた介護職人。なんとかなるだろうと「ちょんちょろりーん♪」って、また馬鹿みたいに考えていた。

これまた、だがぁーしっ。これがまたなかなかうまく行かないというか、なかなか現在働いている階のお年寄りとのコミュニケーションに悩む日々が続いた。

なんとなく、よそ者扱いというか、心を開いてもらえない感を日々感じる日が続く。

そのため、早々に自分の必殺技である「マジック」をかまして見たりしたんだけど、どうにもこうにも反応が悪い。生まれて初めて「耳がでっかくなっちゃたっ!!」で外した。

今までの自分の階では「鉄板ネタ」と信じてやまなかった俺のバズーカーが通用しない。

そもそも、自分は前のフロアーではこんなチンチンロリンでもサブリーダーという立場であって、なおかつ今の施設が出来てからずっと今まで現在の施設で働き、年齢はおっさん。

野球で言うなら、「下柳」や「金本」や「工藤」なんてベテランクラスに入る。そんなおっさんがある日突然やって来た。

配属先のフロアーの職員はほとんど自分よりも年下。なんで、自分に対してはみんな敬語を使っている。

フロアーリーダー、サブリーダーまでも自分に対して敬語であるし、ヘルプで来たと言う事もあり、気を使ってもらっている雰囲気があった。

そんな、何者かもわからないおっさんがウキャウキャってマジックをやっている・・・。お年寄りからしてみれば、確かに混乱もあったのだ思う。

自分は、介護の仕事をしてて、大切にしていることの一つに「信頼関係」ということがある。

ようは、信頼されてなんぼってこと。そういう意味では、出だしから少しばかりビハインドを持っている感覚にも陥った。

これが、自分がまっさらの新人であれば暖かい眼差しの一つももしかしたあったのかも知れないけど、中途半端な役職が余計にお年寄りを混乱させたし、今の階の職員にも気を使わせてしまったことになる。

だがし。それでも自分は当分の間はこの階の介護職人としてのパフォーマンスを繰り出さなければけない事実があった。

そんな自分なりに乗り越えないといけない壁も、月日を重ねているうちに徐々に緩和され、少しずつ自分に自信を持ち始め、お年寄りからも名前を覚えてもらえるようにもなってきた。

だがし。あるお年寄りだけがどうして乗り越えることが出来なかった。あまり好きな言葉ではないのだけど、この介護の仕事を始めてからあまり感じたことのない、対お年寄りへ「苦手」という言葉を使うことになる。

女性の利用者の方なんだけど、お年寄りって感じではなく、実際に年齢がまだ60代とお若い。

その利用者の方が、どうしても乗り越えられない日々が続く。時々この仕事をしているとあるのだけど、いわゆる「新人いびり」のようなものの洗礼を受けている感じがあった。

だがし。そもそも、変なおっさんが偉そうにやってきたわけだから、ここは新人いびりなんて汚い言葉は使いたくないし、洗礼であって、試されているような感じであるのだと自分に言い聞かせ、とにかく乗り越えちゃおうって決意した。

さて、ではここは介護職人としてのスキルの発揮を!と色々と試行錯誤する。

まずは、その方の趣味、生活暦、生活の様子、家族構成などなどをとにかく情報収集する。

そして、集めた情報をもとにその利用者に体当たりで「バチーンっ」って猛アタックする日を重ねる。

本来なら30人近くいる利用者の方に対してのサービスは平等であれっ!って思うのだけど、この戦いは自分がヘルプとしてこのフロアーで力いっぱい働くのに必要不可欠な重要事項なのである。

また、最高のポジティブシンキングを発揮してよいのであれば、これぞ「どらんごん流、究極の個別ケア」である。

そんなこんなで、体当たりで接してた結果、なんとかその利用者の方からの信頼をやっとこさっとこ頂くことができような感じがする。

ここで、冒頭のもててるんだぜっ!ってことに繋がってくるのだけど、かなりの強い信念でぶつかった結果、なんと、自分はその利用者の方から、少しばかり好意を持たれ始めていることが発覚した。

なんと、何年ぶりなんだろう?女性から「ラブレター」をもらったのだっ!わっはっはっ!凄いだろうっ!って浮かれてしまうのだけど、とにかくラブレターを頂いた。

少しばかり半身麻痺があるそのお年寄りが、きっと書くのに凄く時間がかかったであろうその手紙を読んだとき、素直に泣きそうになった。

ただ、内容が思いのほかディープって言うか、真剣な感じだったので、介護職人として、今後の仕事への影響まで少しばかり考えてしまったのだけど、その利用者の方の気持ちは、心から受け取った。

とにかく、さっきも書いたけど動きにくい体を精一杯使い、こんなちんちくりんな自分のために手紙を書いてくれた事実が何よりも嬉しかったし、その気持ちが何にも変える事ができない「宝物」である。

もちろんのこと、その手紙は自分のお宝ボックスへと大事にしまってあるのである。

あんなにも「乗り越えなければいけない」って思っていた利用者の方からラブレターをいただけるなんてことは、これぞミラクルなんだけど、今回のこの一件から学ぶことあった。

ようは「真剣にぶつかれっ!」ってことだと思う。対人関係に悩んでいるのなら、胸と胸をつき合わせて「どかーんっ!」ってぶつかってみろってことだと思う。

そもそも、この考えは昔からあって、それを意識してはいたのだけど、今回の一件で「どかーんっ!」ってぶつかって、これがやはり間違ってなかったのだと再認識できたとも思う。

「人の真剣な思いは、真剣にぶつかれ伝わるものである」2009春

ってなわけで、その利用者の方とはある意味今もラブラブなわけであって、自分の出勤を楽しみにしてくれているとのことだ。

あっ、そうそう。なんでこんなにも人との繋がりについて真剣にぶつかってるのに一般女性にもてないのか?って?不思議だね♪ウフッ♪
ニックネーム どらごん at 21:11| Comment(3) | 日記

2009年04月26日

育てるといふこと

「育てる」ってことは沢山ある。

例えば、植物を育てる。子供を育てる。動物を育てる。感性を育てるなんてのもある。

そんな中でも思いのほか大変なのは「人材育成」であって、人を育てるってことであり、子供育てるのとは違い、ここでの育成というのは、例えば白いキャンパスに新しいデザインを描くのではなく、ある程度のデザイン、色合いがあるものに新たに彩をくわえて行く物であると考えている。

こんな堅苦しい感じではじまったのも、紛れもなく現在の介護社会における、「人材育成」ということを日々目の当たりにし、かつ、その難しさであったり、ある意味「堂々巡り」という状況において、自分なりに日々感じるものがあるからという事実かである。

凝縮して「むぎゅ」って記すなら、教えては辞め、これまた教えては辞めという図式が現在の介護の現場にて起こってしまっている事実があるからであるとも思う。

半年ほど前。ケアマネの試験も終わり、気持ち新たに「新どらごん」としての一歩を踏み出そうとしていたある日に上司に呼びだされた。上司に呼び出されるってのは何故だかソワソワするもので、その日も、まあ、「なんかやらかしたんだろうな・・・俺」の気持ちでリングにでも上がる勢いで伺う。

「異動」

だった。正直驚き!と思いきや、これが思いのほか、すんなりと受け入れている自分がいたことのほうが、異動と言う事実よりも驚いている自分がいた。

まあ、こんな大げさに書いても、結局のところ、今まで働いていた4階から5階への異動であり、「どらごん君。君は左遷で明日からパキスタン」なんて感じではないので、すんなりと受けれることが出来た。

かつ、今回の異動は、実のところ「条件付の異動」であって、異動先のフロアーが人材的に落ち着いたら元の4階に戻ると言う「条件付の異動」だった。言い換えれば「ヘルプ」ということになる。

と、こんな感じからもわかるように、介護の現場における人材不足っていうのは、報道などでやっていることが大げさな報道ではなくて、リアルタイムに起こっていることなのである・・・。

自分がその異動先に行ったのは、自分が異動した後に3人の退職者が控えている状況であり、自分が異動して間も無く1ヶ月ちょいで、嘘偽り無く3人の職員が次々に退職した。

様々な事情があり辞めて行くのだから、退職と言うことは仕方がない。ようは、「ヘルプ」という肩書きで異動になった自分が、その「ヘルプ」という言葉の本当の意味になれるか?ということが大事である。

「ヘルプ」=「助ける」という意味だったような気がする・・・。そう。自分は「助ける」立場であれっ!ってことだ。異動が決まった直後は「チョンチョロリーン♪」って感じで何も考えていなかった自分が、勤務を重ねる毎に「ヘルプ」という言葉の重みに潰されそうになる日々・・。

そんな重みが自分を苦しめ、精神的にややおかしくなり、誤薬を重ねること3回・・・。転倒の報告書を1日に3枚も書く状況もあったりと、介護を始めてからお初の異動に戸惑う日々を重ねた。

この経験で自分と言う人間が、自分が想像していた何倍も弱い人間であり、不器用な人間であることを再認識できたというだけでも、この異動でありヘルプにはとても大きな意味があったのだと感じることができた。

かつ、見えなかったことが見えたり、見ようとしなかったものが見えたりと、ヘルプで異動した自分が、最終的におおよそ半年が経過した現在にとても強く感じていることはこうだ。

「ありがとう」

現在働いている階では、人間として、介護者として自分が不足していたものを補うことができた、「ヘルプの場」ではなくて、紛れも無く「学びの場」であったと感じている。

まあ、はなっから「ヘルプ」なんて粋がった気持ちはなかったわけだけど、肩書きは「ヘルプ」で働くことになったのに、「ありがとう」になっている現状ってのが、もしかしたらって言うか、結構な感じでお恥ずかしいんだけど、まあ、俺なんてそんなもんである。

さて、つらつらと書いたけど、これはあくまでも前フリであって、現在自分の気持ちの整理の場として書きたいのは、こんな自分が約半年間働いている間に、年度変わりってこともあり、新たに現在の階にモリモリと新入社員が入ってきていることである。

自分が移動になって半年間がたった現在、自分も今の階ではたった半年の新人さんですよぉーって感じで甘えん坊になっていたのだけど、ふと気が付いて見ると、自分が異動後に常勤、非常勤合わせて、6人もの新入職員が入ったわけで・・。

まあ、実際1人は既に退職してしまったので、事実上5人なのだけど、そんな事実から自分は「おかあちゃーん、おっぱい♪」って感じでは通用しない、需要な立場でなく、供給という「教える立場」に変身していることに気が付く。

というわけで、ここ最近はもっぱら教える立場になっているのだけど、やはり「人を教える」「人材育成」ってのは難しい。人を教えるときにいっつも自分が考えてしまうことがいくつかある。題して、人材育成6か条。

1:自分はこうだけど、果たして正解なのか?
2:厳しくすると辞めちゃうの?
3:ここでなくても、いくらでも介護施設は手招きをしているわけだか  ら、いかにこの職場が素晴らしい職場だと言うことをどう伝える
  か?
4:チームワークとしての輪の中にあなたはいますよって伝えること
5:お願いだから辞めないでってこと
6:俺って何様なんだ?ってこと

と、いうようなことがいつも脳裏によぎっている自分が、そもそも人材育成なんてことを語る資格もないのは重々承知であり、結論から記してしまうと、自分は育成タイプではないということになる。

またまた、究極な結論から書くと、自分は両親から

「人の良いところを見なさいと育てられた」

という結論に至る。さらに突き進めると、そこに責任転換を見出していることになる。

そもそも、人の良い部分を見るということを意識して生きている人間が、人の至らないところを指摘するなんてことができるわけもないし、さっきの育成に関する6か条にも記したように、最終的にはぐるってぐるぐる回って、「俺って何様」ってゴールに辿り着く。

自分が出来ないことを指摘す権利もないし・・・。なんて、なよっちいことを考えてる自分が人材育成なんて甚だおかしな話でもある。

こんなプライベートな内容を記して良いのか?って迷いつつも、結局のところ迷うことなく記すわけなんだけど、家の伝説のファーザーである「父サトシ伝説」がある。

全てのことは知らないのだけど、父サトシはある日、まじめな性格で仕事も一生懸命だったのだろう、いわゆる「昇進」の話があった。

しかし、父サトシは、丁重にその話を断ったというようなことがあった。幼心なため、あまり意味はわからなかったけど、今は父サトシが言っていたことがわかるように思う。

父サトシは、「偉くなることによって失うものもある」ような事を言っていた。ようは、頂きを目指すには失うものがあり、会社、社会で考えるなら、時には叱咤し、殴った拳のほうが痛かったりということがあったり、そして、最終的にはリストラであったりということで、「人の人生そのものを左右する決断迫られるという立場になる」ということを父サトシには出来ないとうことであったと思う。

幼心ながら、自分はそんな父親を「かっちょ良い」と思った記憶があるし、その父親の生き方であり、哲学を尊敬したし、それを支えてきたであろう母親も尊敬している。

なんか、話がでかくなりすぎた感満載であり、なおかつ、なに熱くなってんだ感も否めないわけなんだけど、最終的にはこれまたぐるぐるっと回りに回って自分はそんな父サトシの息子であるということになる。

だから、この先、出世することも無いだろうし、誰かを蹴落とすこともないし、お金持ちにもならないだろうし、今回のテーマでもあるように、人材育成も下手クソなんだと思う。

だがし、「偉くなるより一人前に」であり、暖かい雰囲気のもとこの先の人生を、現在の自分の両親のように、思いやりのある人間であり、人生を歩んで行きたいと思う。

もちろん、こんな考えが甘いと思う人も多々いると思うけれど、自分は自分であって、これが自分の生きる術であるわけであって、これでよいと思う。

だがし、こんな自分にだって伝えることができる分野があって、それは、唯一、「お年寄りをいかに笑わせるか」であり「理想論論でも、追ってみる」ことであり「少しばかりのパッション」であると思う。

「育てるといふこと」

これは、想像以上に難しいし、現在の介護社会においては、さらに難しいのだと思うのだけど、頑張って行こうと思う。

最後に、こんなことを書いておきながら、自分の厳しさと言うこということに関しての逃げっぷりには、少しばかり検討が必要でもあると思うので、そんなことんも目を向けれたらともとも思う。

少しばかり、いつもより酒をあおり、暑苦しい日記を書いたとさ。

ちゃんちゃん♪
ニックネーム どらごん at 23:22| Comment(6) | 日記

2009年04月20日

具現化に向けて

さて、「あっ、野球やろ」から月日が経過したわけなんだけど、あれからこの物臭な自分が今回は珍しく活動している。

キャッチャーミットを購入後、キャッチボールを行い、その後はバッティングセンターで自分を少しばかり可愛がり、先日はとうとう、野球をやるには1本は必要である「バット」を購入した。

そして、そのまま夜勤明けの疲れた体にムチを打ち、先日は久しぶりにチャリンコを走らせ、グランドの予約に行ってきた。

そのグランドってのが、陸上競技場も敷地内にあるため、先日の日曜日、どうやら中学生か高校生の陸上競技大会が白熱な感じで行われている最中だった。

そんなこんなで、その敷地周辺は中学だか高校生だかが溢れんばかりわきゃわきゃしていた。紛れも無くフレッシュな若者の群衆の中、夜勤明けでくたくたおっさんは気分転換なノリで始めようとしている野球のグランドを予約するがためにフレッシュの群集の一員になっている。

まるで、出荷寸前のフレッシュなイチゴの中に、触ると「むにゅ」ってつぶれちゃう、明らかに熟しつつあるイチゴが紛れ込んでしまっている感が満載だ。

これが本当の出荷寸前であれば、明らかに識別係りのおばちゃんに、
「あっ、これ腐りかけてるわっ」とのことでジャムなんかを作るほうのイチゴに回されるだろうななんてバカなことを考える。

しかし、最近の学生と言うのは、本当にでかい。男の子はもちろんのこと、なんと女の子も容赦なくでかい。少しは気を使って欲しいくらいにでかい。

夜勤明けで疲れたおっさんは、いつもに増して、その疲れから、人としてのオーラも無いわけで、光り輝くでかい学生の中、よりいっそう小さく見えてたのだろう。

目立たないようにひっそりと歩くのだけど、馬鹿みたいその日に限って真っ赤な上着を着てってしまったため、陸上競技のユニームの中では際立っちゃう。

「なんだ?この小さな真っ赤なおっさんは?」と冷ややかな目で若者に見られつつも、自分は自分の仕事をするのみだ。

そんなこんなで、真っ赤な小さなおっさんは、幾多の困難を乗り越えつつも、なんとか無事にグランドの予約をしたのだとさ。

さて、そんなこんなで無事にグランドも確保し、ある意味、ノリに近い感覚で始まろうと野球が具現化しつつある。

こうなると、必要になってくるのが「チーム名」なんだけど、これが思いのほか決まらないもんで、夜勤中に色々と試行錯誤してみた。現在考えているのが、

『砂町ケアワーカーズ』

『湾岸ウェルフェアーズ』

なんてのが有力なんだけど、なんとなく普通すぎて面白くないかな?なんてことを思っているのも事実である。

キーワードとしては『介護者』で構成されるであろうチームであることと、『地域』を入れたいということである。

そんなこんなで、

『オムツ交換ズ』『トイレ誘導ズ』『湾岸パット』『アテントーズ』なんてのも少しばかり考えたのだけど、もちろんそんなおふざけはできないわけで、現状は上記の2つが有力になっている。

さて、チーム名もある程度絞れた雰囲気もあるので、とにかく今は第一回の練習を楽しみにしている。

今年で33歳を迎えるわけだけど、やはり年齢に関係なく何かを始めようとするとき、人はわくわくするものなんだと改めて感じている。

初練習では、『1000本ノック』がしたいので気合充分である。
ニックネーム どらごん at 13:16| Comment(4) | 日記

2009年04月14日

転機と右腕のバランス

前回の更新からかなりの月日が経過してしまったわけで・・・。といった気分ではあるものの、また、新たに自分の気持ちの整理の場所として更新意欲が沸いてきたわけで・・・。

そんなこんなで、まさしく、この日記のサブタイトルである『それとなく』感覚で記している月曜日の午前なのである。

さて、では何を記そうかって考えるとこれまたどうしましょ?って感じなのだけど、せっかくなんで少しばかり自分の転機になりそうな出来事が巻き起こっている事実について。

自分が介護を始めてからかなりの年数が経過したわけなんだけど、日々の介護現場における目標の他に、自分自身への目標が常時あった。

『ケアマネージャー』の資格取得。

これは、自分が介護を始めようと思った時に、自分が自分に掲げた最終目標でもある。

そのためには、現場での経験年数を積み重ね、介護福祉士を取得し、かつ、さらに現場での経験を重ねることが必須だった。

そんなわけで、そこへ向けてって感覚は実際のところ無かったものの、段階的に常時乗り越えなければ目標であり、壁がありそれに向けて自分なりに走ってきたわけだ。

ポジティブに捕らえれば、『やりがいがあった』ことになり、ネガティブに捕らえれば『常時壁があった』ということになる。

ここはあえて『やりがい』関連で進めて行こうと思うのだけど、というわけで、自分にはここ6・7年は目指す目標があったことになる。

だがしっ、先月の中旬をもってケアマネージャーの実務研修が終了し、あと数日でケアマネージャーの資格章が届くであろう段階を迎えている。

6.7年間もの月日を費やし、実際に自分が欲しかったものが、もうすぐ自分の手中になるだろう現在に自分が何を感じているかと言うと、これがビックリしたことに、充実感よりも『虚無感』であったり、『不安感』であることに何より自分が一番驚愕な事実であると感じている・・。

ようは、「ぽっかり」や「ふわふわぁ」や「ぴろぴろぉ」って感じで、何を目指して良いのか?という感じで迷走してしまっていることに気が付く。

前回の日記にも記したようなんだけど、基本、貧乏性な自分の体質がちくちくと、ヘイヘーイどうするんだい?って自分をつつき始めている感じだ。

数日前、例のごとくスロットを打った。朝から派の自分は案の定朝から店頭に並び、データ分析のもとに自分が選んだ台に、可愛がってやろうじゃないかくらいの気持ちで座る。時間はAM10時。

自分で記すのも馬鹿みたいなんだけど、そのホールの癖をある程度把握しているので、その日も高設定であろう台だと昼過ぎには判別する。

そうなればやることは簡単であって、データを取りつつ、いわゆる、「ぶん回す」だけである。ぶん回しただけ出るからである。

案の定、自分が高設定だと予想してぶん回していた台は、夕方過ぎに「ドカーン」「ビカーン」って感じで高設定札が刺さり、高設定確定台となった。

泡でも吹いて気絶しそうなほどにコインをサンドに入れては3つのボタンを白目をむいて何度も押す。そんな作業を繰り返しているうちにデータカウンターの数字は8000回転をさらっと超えている。時間はPM10時。

3つのボタンを8000回転=24000回ボタンを押して、得られた結果、なんと、な、なんと見事に敗北だった・・・。

帰り際に、モスバーガーにてお金を払う際に差し出した、自分の黄金の右腕は明らかに「ぷるぷるっ」って痙攣していた・・・。

そして、店員さんから差し出された紙袋をもつ自分の豪腕である右腕も「ぷるぷる」していた。

さらには、帰りの電車でつり革につかまる際の自分のプラチナな右腕は、なんとも上がらなかった・・・。

我ながら「なにやってんだ俺・・」って自問自答を繰り返す。24000回ボタンを押して、ホールにお金をお支払いまでして、最終的には電車のつり革にまで手が届かない自分。

『危ないですからつり革にお掴まりください』なんて緊急時にも、24000回転ボタンを押したがためにプルプルして、何にも掴まることがなく死亡なんて、前代未聞でかっちょ悪い。

そんことを考えてふと自分にある発想が降臨した。

「あっ、そうだ、野球やろ」

である。

目標を失いつつ、『24000回転な自分』が何の根拠もなく出した結論がこうである。

という訳で、先日の夜勤明けで、まだ発足もしていない自分のチームメイトであるイッシッシーと一緒にスポーツ洋品店へ行ってみる。

グローブコーナーにて、ある商品に無性に関心が沸く。

「キャーチャーミット」

野球経験者である自分が、優先的に発足もしていない妄想、想像に近い感覚で現状作り上げてるチームでの役割は乳房役ではなく、『女房役』である。

そんなわけで、散々迷った結果、キャッチャーミットをご購入。夜勤明けだったにも関わらず、職場の可愛い後輩であり野球経験者であるピデ君と夕方からキャッチボールを嗜んでみる。

すると、驚いたことにと言うよりは、案の定、猛烈に例のやつが痛いのである。そう。あの24000回転がここまで自分を苦しめる・・・。

昔は、遠投だったら江東区から江戸川区まで届くであろう自分の豪腕はめっきり影を潜め、今や、男子便所から女子便所のくらいの距離感でさへ肩が痛い・・・。

新しいミットでウホッホーイって気分だったのに便所間なちょぼい肩になっている自分・・・。

今まで自分なりに走ってきたけど、その分失ったものもあるのだな。ふむふむ。ってことで自分に言い聞かす。

だがしっ。こう見えても自分も精神的には『侍ジャパン』であって、電車のつり革に掴まれない侍であっても、『あの頃のように』草原を走り、うきゃうきゃって跳ね回り、お肌ぴちぴちで、額から何よりも美しすぃー汗をかけるであろう日々を願っている。

『これを転機と呼んで良いのですか神様?』
ニックネーム どらごん at 10:07| Comment(1) | 日記

2009年01月29日

一通の手紙

二十代中頃から介護を始めておおよそ7年。おむつ交換や入浴介助などなど、毎日が刺激的な毎日だったあの頃から、もうそんなにも月日が経過したのか。。。などと、しんみりしてみた。

夢や理想なんて抱く暇もなく、ただ毎日が刺激的であって、時にはショックであって、そして、時に歓喜する。そんなあわただしい毎日を自分なりに生きて来て、ふと振り返って見ると、自分も今年で御年33歳になるという年を迎えている。

おっさんである。そんなおっさんが、おっさんなりに介護と言う仕事をやってきて、けっこうな月日が流れて来た訳なんだけど、驚いたことことに、『変わっていない』ことに気が付く。

基本、ポジティブなんで、自分を肯定してみる訳なんだけど、願ったり叶ったりて言うわけでもないのかもしれないけど、辛うじて「熱い」ということだ。

そして、怖いことに、介護と言う仕事の年数を重ねれば重ねるほどに沸騰してくる感覚が自分の中にある。確かに、自分で選択をした道なんで、そこに責任を持つことなんて当たり前だし、一蓮托生、頑張る。

だけど、ある意味、ここまで「はまっている」という感触を33歳を迎えるこの年になっても感じてるのは、ある意味誤算であり、嬉しい誤算なのかもしれない。

オカルトチックなことを時々考えるのだけど、たぶん自分は前世によほどお年寄りに対して酷い事をやらかしていて、現世での自分の役割は、お年寄りに対しての「みそぎ」なのではないか?とさえ考えることもある。

なのであれば、自分の内からにじみ出る情熱の説明もつくわけだし、そうであれば、これまた頑張るべきと言うか、頑張るように出来ているのかも知れない。

介護を始めてから「貧乏性」である。なにか自分がやっていないと不安になるし、なんだか介護をやってから「安定」という言葉に安心感を抱けなくなった。

なにか自分自身に説明できる状態でないとなんだか「不安」になる。それは、先ほども書いたように、介護年数が経過すればするほどに「情熱」のような曖昧なものと共に膨らんでいく。

きっと、それを象徴し、ピークになったのが昨年であって、昨年は介護関連の資格を1年でバカみたいに3資格取得した。これは、取得したからどうしようなんて明確なビジョンも無いくせして、なんだか「知らなきゃ」や「取るべきなんだ」という見えない力に動かされた感さえある。

そして、今年こそは、それこそのんびりと過ごして、合コンにも参加しつつ「嫁探し」でもしようじゃないかなんてゆるーいビジョンを立てていたわけなんだけど、これまたそうも行かないらしい。

大好きである「スロット」に行かない時間は、なんだか、新しい何かを探したくなる。PCに向かい、なにか自分のためになる資格はないのか?や、自己啓発関連の本を手にしたくなる・・・。病気である。

でも、最近わかってきたのだけど、やっぱり自分はこういった人間であって、究極のところ「貧乏性」なのだと言い聞かす。

そして、今はそういう時期であって、自分のお年寄りに対しての「みそぎ」はまだまだ継続中であり、これからも『ミソギニスト』でなければいけないのかもしれない。

だけど、良いのか悪いのか?嬉しいやら悲しいやら、どうやら自分はこの介護と言う職種の「みそぎ」を『生きがい』に出来ているという猛烈に強い要素を兼ね備えている。

『仕事が生きがいなんて寂しいよね』

なんて言葉を若かりし頃に吐き捨てた記憶も定かに残っているものの、自分は紛れもなくそんな『寂しいよね』って人生を歩んでいる。

だがし、これまた人生面白いのが、今となっては、そんな寂しいよね人生を誰よりも楽しんじゃっている自分がいると言うことだ。

あとは、自分の気持ちをこれから先どう表現していくのか?であり、その表現をする舞台がどこなのか?ってところなのだと思う。

今年に入ってから日記を読み返しても、明らかに「迷走中」であり、我ながら自分で読み返して「変な奴」って思う。

でも、これでも真剣に悩んでいるし、真剣に『今後の自分の在り方』を模索している。

自分が一番素直に表現できる舞台はどこなのか?どこまでの舞台を求めるべきなのか?どこまでが自分に出来るのか?そんな自分の可能性の限度を探している。

先日、自分が働く施設に自分宛の年賀状が届いていた。かなり前に、入所されていたお年寄りから年賀状だった。

実のところ、時々そんな感じの便りを頂くことがあり、手紙も含めて自分の家に宝物として保管してある。

そんなタイミングもあり、改めて全ての手紙に目をとおしたのだけど、その中でも自分が今の仕事をしたての頃に頂いた手紙で手が止まった。

その手紙をくれた利用者の方は麻痺があり、ご自分で手紙を書けないため、その娘さんの代筆なのだけど、その手紙を読むと、みるみると力が沸いてくるし、そして、あるエピソードが蘇り、『初心』に戻れる。

そのエピソードっていうのは、この手紙をくれたFさんというお年寄りが、自分の働く施設を退所するになり、同じ区内の特別養護老人ホームに退所することになった時のエピソード。

当時、そのFさんと同室者にNさんというお年寄りがたのだけど、FさんとNさんはもちろん同室者と言うこともあり友人関係になっていた。

Fさんが退所してから数日後の夜勤でのこと。どうもNさんの元気がない。よくよく話を聞くと、Fさんが退所したことをとても寂しがっていて、自分からみても、元気が無さ過ぎて、顔色さへ悪い様子だった。

「Fさんにどうしても会いたい」

とNさんは自分が夜勤明けの早朝から何度も言い、落ち着かない。その当初、介護を始めたばかりの自分からしてみれば、答えは簡単だった。

「会いに行けばよい」

そんなシンプルな発想から、自分は自分が思うがままに、上司にも情熱的に語り、当たり前のように無理無理に承諾をとり、施設の車を走らせ、同じ区内のFさんに会いにいった。

久しぶりの再開を果たした二人はお互いに涙を流し、お互いがお互いにこれからも元気に生き、長生きをするという約束を果たした。そして、そんな感動物語を目の当たりにし、自分も涙する。

Nさんは自分のしたかった事を果たし、それから元気を取り戻したようだったし、自分は自分で、再会のお手伝いをして満足だった。

でも、現実は厳しく、自分がとった行動は不正解だったと後々上司にお叱りを受けた。当たり前である。

ようは、これから先、同じような状況になった際に、全ての利用者の方を車に乗せて、会いたい人に会いに行かせるのか?また、夜勤明けと言う状況下において、ばたばた連れ去るように施設を飛び出した自分。

やはり、間違っていたのだと思う。素直に反省した。

だけど、この手紙を手にするたびに思うのが、あの頃の自分には、周りのことさへ見えなくなりつつも、お年寄りの願いをすぐにでも叶えてあげたいという「情熱」があったいうこと。

では、今、同じ状況にあった際に、同じことが今の自分に出来るのか?って考えた時、今の自分には出来ないのだと思う。

それは、あれから自分も色々な経験を積んでいく中で、施設の介護にできる限界と言うものを感じ始めているからなのかもしれない。

実は、実際に、今同じ状況がある。自分が現在働いているフロアーで、正しく、FさんとNさんの関係を思い出させる状況がある。

やはり、同室者の利用者の方が退所され、それにショックを受けて、食事ものどを通らず、メンタルが低下されている人がいる。

あの若かりし頃の自分ならば、「じゃ、会いにいきましょ!!」なんて感じで、車に乗り込み暴れていたのかもしれないけど、今はそれがなりふりかまわず出来ない。

施設介護者としては正解なのかもしれないけど、時に、あの頃のおバカな自分の勢いがなくなった寂しさも感じる。

そして、どちらが正解なのかわからないけど、自分が抱く方向を実現すのであれば、やはり、受け入れる側でなく、向かう側になるしかないのだとも思う。

時に初心に返ったりすると、自分が忘れかけていた大切な感情を思い出させてくれることがある。

結局のところ、こうして日記を書いてて思うのは、冒頭では自分は変わっていないだとか、「情熱」だなんだと謳ってみても、最終的には自分もどこかオブラートに包まれた介護者になるつつあるって事なのかもしれない。

もう一度、自分がやりたい介護。やるべき、目指すべき介護を、こんなおっさんながら考えてみようじゃないか!なんて、一通の手紙から考えてみた、明日も夜勤な自分であった。
ニックネーム どらごん at 00:56| Comment(0) | 日記

2009年01月19日

テリヤキとフィレオの違い

「チェンジ」なんてセリフが日本だけならず、今や日本を越えて世界にも広がりつつある昨今、みなさんいかがお過ごしでしょうか?僕です。

変わり時なんでしょうか?この頃。

だったら乗っかってみよか?やめよか?それともやろか?やらまいか?

小学校くらいの頃に、いかにも飛び越えられそうな水溜りがあって、それを思い切って飛ぶのか?それとも、「びちゃっ」ってなるからやめようか?そんな感じに近いものがあるのが何を隠さない自分である。

もしくは、通勤中にうんこがしたくなって、下車しようか?思い切って、お漏らし覚悟で定時出勤を最優先とし、お漏らし出勤をするか?

そんなもんにも近いのかも知れない。

ある人は言った。

「変わりなさい」と。

そして、ある人も言った。

「そのままで良いよ」と。

方や、現状維持を謳うトップあり。

方や、チェンジを声高らかに謳うトップあり。

どっちが期待感に胸を躍らすことが出来るのだろうと考えたとき、それはもちろん後者であって、それが限りなく正解に近いのであれば、今の時代の流れは「チェンジ」なのだろう。

世界を変える「チェンジ」も、老後の生活を変える「チェンジ」も規模は違うものの、それは紛れもなく「チェンジ」だ。

「現状維持」

こんな感じが大好物な感じ。でも、大好物だって飽きちゃう。こんな文面をある本で読んだんだけど、なかなか面白い発想だなって思った。

テリヤキバーガーがもう死ぬほど好きで、毎日のように食べていた。テリヤキ生活も随分と続き、ある時ふと思った。「飽きた」と。あんなにも大好きだったテリヤキを嫌いになるなんて考えても居なかった。

そこで、ある日、チャレンジ、チェンジをしてみた。「フィレオフィッシュ」。

すると、これがまた、想像以上においしく、その日からはフィレオ生活が始まる。

そして、また巡って来る。「フィレオ飽きた」と。

そこで、またテリヤキに手を付けたところ、さらに深くテリヤキをおいしいと思い、以前より増してテリヤキにはまってしまう。

「現状維持」にてテリヤキを食べ続け、フィレオフィッシュに目を向けることがなかったら、その先のテリヤキの良さには気が付くことはなかったと言うお話だ。

これって、日常茶飯事な出来事なんだけど、この感覚って言うか、気持ちって言うか、まあ、そんな感じって、実のところ大切な視点なのではないか?って思う。

テリヤキをフィレオに変えることは用意にするくせして、自分の身近な環境をハンバーガー感覚に変えることは出来ない。

当たり前だけど、まあ、自分が言いたいのは、それくらいフランクにやってみる感もあって良いのじゃないか?ってこと。

世界を変える「チェンジ」は重いけど、テリヤキをフィレオに変える「チェンジ」は出来る。

僕らには世界を変える「チェンジ」は出来ないけど、身近なお年寄りの生活を変えることができる「チェンジ」なら、一発逆転あるのかもしれないと思う。

ハンバーガーを変えるチェンジほど軽いもんじゃないのはわかっているけど、精神論として、「変えてみようよ!」って雰囲気が必要なのかも知れない。

テリヤキ→フィレオ→テリヤキ

という図式なっても、2回目のテリヤキがさらにおいしく感じれば、それは一見変わっていないようだけど、変わっている。

それは、テリヤキが変わったのではなくて、自分が変わった証になる。

こんな「チェンジ」もありじゃね?のような感じで、日記を書いた。
ニックネーム どらごん at 23:40| Comment(2) | 日記

2009年01月05日

「ぐるっと回って自分のための人生」

ども。

「人からどう見えるかってそんなに重要?」

って福山がやっているCMが骨身にしみてる年始を過ごしている僕です。

実は、職場での環境がちょいとばかり変わり、既に1ヶ月ちょいを過ごしてきた自分に、福山はタイムリーな質問を自分に投げかけて来た。

「環境の変化」

‘そんなもんたいした問題じゃないさ‘

くらいに考えていた自分に、環境というざっくりとしたもんが大きく立ちはだかっている。

立ちはだかっていると感じているのは、自分の姿勢一つでどうにでもなることもわかりきっているくせして、変化することの出来ない自分が最近歯がゆい・・・。

その立ちはだかっているものに、相対するには、正しく、福山が問いかけている「人からどう見えるかってそんなに重要?」って事への明確な回答が必要になるような気がする。

ざっくりとクールに投げかけているこのCMは、実のところ結構な感じで奥行きのあるテーマだとも思う。

なぜなら、多くの人が実は、結構「重要」だからなのだとも思う。職場の環境の重要さ。人間関係。これは、ポジティブに仕事をして行くには大きなウェイトを占める。

これは、しこしこと数年間『介護』という職をやってきて自分が抱いてる印象でもあり、感想でもあり、究極『真実』でもあると思う。

だから、自分勝手にあのCMに回答するのであれば

「うーん。。難しいよね・・。まっ、最低限必要な範囲では重要かな?いや、待てよ。重要って思う感じでなくて、必要って感じなのかな?うーん・・・。あっ!うんこしたい」

のように、明らかに官僚のようにぼんやりとした感じの、あくまでも「保守的」な感じのニュアンスの回答になってしまうのだろう。

でも、あのCMが言いたいことは、「そんなんじゃだめだろ」や「もっと強く男らしく生きろよ」のような「強さ」を強調しているのだと思う。

おっと。自分勝手にCMを考察する感じになってる・・。

じゃなくて、自分が年始めに感じていることは、ようは、「もっと強く生きればいいじゃん」ってことになる。

周りの目を気にしてびくびく生きたり、周囲が自分の事をどう思っているだとか、嫌われたくないだとか、そんな複雑な面倒くさいことを振り払って生きればいいじゃんってこと。

そんな自分になれた時、何か大きな結果が生まれたり、新しい何か?が出来るのでは?のように一人で沸々としている自分が我ながらバカっぽい。

でも、それでもいい。猪木も「バカになれ」っていってるし、3の倍数のときだけバカになったって良い昨今だし、もしくは、そんなバカがいてもそれはそれで面白いのかも知れない。

最近、我ながらおバカに色んな事を相変わらず考えてるわけであったり、そんな自分を落ち着けるがために前向きな本を読んだり、考えたりと、自分探しに必死なわけなんだけど、最終的に最近自分がはまっている自分自身への回答。

「ぐるっと回って自分のための人生」

力いっぱいわがまま丸出しな、なんともかっちょわるい結論。

だけど、今の自分のこうだ。

これが2009の小生であります。隊長っ!
ニックネーム どらごん at 22:57| Comment(0) | 日記